1.はじめに
日本の医薬品・ヘルスケア業界は,グローバルな市場環境の変化や技術の進展により,新しい戦略が求められている。その中で,マーケットインサイトの理解と市場性評価の手法は,意思決定における重要な要素となっている。
本稿では,近年のマーケットインサイトの動向を概観し,それが将来の市場性評価にどのように貢献するかを分析する。これにより,医薬品開発における意思決定の精度向上を図ることを目的とする。
2.近年のマーケットインサイトの動向
2.1 医薬品におけるマーケティングの重要性
2000 年代以降,製薬企業は研究開発と市場のニーズを結びつけるため,マーケティング視点を重視している。
マーケティングは,患者や医療従事者のニーズを明確化し,それに基づいて製品を改善することを通じて,医師や患者に製品の存在意義や特性を広く認知させる役割を果たす。これにより,製品が単なる医療資材としてだけではなく,治療や生活改善のパートナーとして位置付けられることを目指している。
さらに,マーケティングは,未だ満たされていない患者ニーズを捉え,新しい治療法やアプローチを創造するプロセスを推進する。特にアンメット
・ メディカル ・ニーズの状況に着目し,革新的な解決策を通じて,多くの患者が求める理想的な治療の実現を目指している。これは,患者にとって真の価値を提供する新たな治療の開発を促進するものである。
また,マーケティングは,個々の患者が抱える特定の課題やニーズに応じた医薬品情報を提供することで,医師や患者が最適な選択を行える環境を整える。この詳細な情報提供は,患者一人一人にカスタマイズされた医療を可能にし,個別化医療の実現に寄与する。
市場調査は,アンメット ・ メディカル ・ ニーズを発見するための基盤であり,マーケティング活動において極めて重要な役割を担う。市場調査を通じて,潜在的な問題や課題を明確にし,それに基づいて研究開発を進めることで,具体的かつ実行可能な情報を提供する。このプロセスは,製品の成功のみならず,患者のQOL(生活の質)の向上にも直結する重要な取り組みである。

図1
2.2 マーケティングの進化
フィリップ・コトラーによるマーケティングの進化を振り返ると,以下のような段階を経ている。
・ Marketing 1.0 : 製品志向(1900 年代〜 1960 年代)。
・ Marketing 2.0 : 顧客志向(1970 年代〜 1980 年代)。
・ Marketing 3.0 : 価値主導(1990 年代〜 2000 年代)。
・ Marketing 4.0 : 自己実現志向(2010 年代〜)。
・ Marketing 5.0 : Technology for Humanity(2021
年〜)。
これらの進化により,マーケティングは機能的価値だけでなく,情緒的・精神的価値をも訴求する重要な手段となっている。
フィリップ・コトラーは,時代の変遷とともにマーケティングの概念を深化させ,以下の5 つの段階を提唱している。
1.Marketing 1.0 : 製品志向(1900 年代〜 1960 年代)
大量生産・大量消費の時代において,企業は製品の機能や品質を重視し,いかに多くの製品を市場に供給するかに焦点を当てていた。
2.Marketing 2.0 : 顧客志向(1970 年代〜 1980 年代)
市場が成熟し,消費者の選択肢が増える中,企業は消費者のニーズや欲求を理解し,それに応える製品やサービスを提供することの重要性を認識するようになった。
3.Marketing 3.0 : 価値主導(1990 年代〜 2000 年代)
インターネットの普及により,消費者は製品や企業の背景情報を容易に入手できるようになった。これに伴い,企業は社会的責任や倫理的価値を重視し,ブランドの使命やビジョンを明確にすることが求められるようになった。
4.Marketing 4.0 : 自己実現志向(2010 年代〜)
消費者は製品やサービスを通じて自己表現や自己実現を追求するようになった。企業は顧客との共創やエンゲージメントを深め,個々の価値観やライフスタイルに合わせた提案を行うことが求められる。
5.Marketing 5.0 : Technology for Humanity(2021
年〜)
AI やビッグデータなどの先端技術を活用し,人間中心の価値創造を目指す段階である。企業はテクノロジーを駆使して,個々の顧客のニーズに合わせたパーソナライズドな体験を提供し,社会全体の幸福や福祉に貢献することが期待されている。
これらの進化を通じて,マーケティングは単なる製品やサービスの販売手法から,社会的 ・ 倫理的価値の提供,そして人間の幸福や自己実現を支援する包括的な活動へと変貌を遂げている。企業はこの変遷を理解し,時代の要請に応じたマーケティング戦略を構築することが求められる。
2.3 市場調査からインサイトへ
市場調査は,単なるデータの提供に留まらず,ビジネスにインパクトを与えるインサイトを求める方向へ進化している。医薬品メーカーの多くも,かつて市場調査部などとしていた部署名を,最近はビジネスインサイト,マーケットインサイト等と改称してきた。P
& G 社長時代に桐山氏は,インサイトを「心の奥深くに存在する自覚のない感情やニーズであり,ビジネスを成長させる可能性を秘めているもの」と定義した。
インサイトを得るには,定性調査や定量調査,ビッグデータ,SNS など,さまざまなデータソースを活用する必要がある。これにより,患者の深層心理や行動を理解し,マーケティング戦略に反映させることが可能となる。
2.4 医療の激変期におけるキーワード
現在の医療・ヘルスケア業界は,以下のようなキーワードで表現されるような劇的な変化を経験している。
・ 患者中心/Patient Experience:
患者の体験価値を重視し,治療プロセス全体を通じて満足度を高める取り組みが進んでいる。
・ テーラーメイド/個別化医療:
患者の状態,生活環境などニーズに基づいて個別化された治療の重要性が増している。
・ デジタルトランスフォーメーション(DX):
医療データの利活用やAI 技術の導入により,医療の効率化と質の向上が図られている。
・ リアクティブ医療からプロアクティブ医療へ:
病気が発生した後の治療だけでなく,予防や早期発見に重点を置く動きが加速している。
・ 未病から終末期医療まで:
予防医療から終末期ケアまでの幅広いアプローチが重要視されている。
・ 希少疾患 ・ 難病のUnmet Needs を “Met” Needsへ:
未だ満たされていない患者ニーズへの対応が業界の焦点となっている。

図2
2.5 Beyond Pharma へと広がる医療・ヘルスケア業界
医薬品業界は現在,「Beyond Pharma」へと事業領域を広げ,クロスオーバーが進行している。これは,未病の予防から疾患治療,終末期医療までの幅広いケアを対象とし,以下のような特徴が見られる。
・ 医薬品企業の事業多角化:
医薬品から,医療・ヘルスケア事業全般へ事業領域を広げ,総合ヘルスケア企業を目指す傾向。他業界からの参入:異業種からの医療市場への進出が活発化している。医薬品企業,従来からの医療機器企業らとの提携も活発化。
・ ベンチャー・スタートアップ企業の躍進:
創薬はバイオ医薬品,再生医療など種々の専門技術に特化したベンチャーから。海外のスタートアップ企業の躍進が特に目立つ。
このような状況下では,パラダイムシフトを正確に捉え,先手を打つインサイトが求められる。未病の予防から疾患治療,さらには終末期医療に至るまで,幅広い分野でのニーズに対応することが求められる。

2.6 Patient Centricity の背景と意義
製薬業界がスペシャリティ領域へとシフトする中で,患者との密接なやり取りの重要性が高まっている。患者自身が治療選択や意思決定に関与する機会が増え,患者体験(Patient
Experience)の向上が企業戦略の中心に位置付けられている。
良好な患者体験を提供することで, 臨床試験への参加,新薬利用の促進,長期的な治療継続が可能となる。結果として,患者の健康アウトカムが向上し,製薬企業は十分なケアを受けていない潜在的な患者層と接点を持つことができる。
2.6.1 Patient Centricity, Patient Experience,
Patient Journey
患者中心の医療(Patient Centricity)は,ポジティブな患者体験(Patient
Experience)を生み出す基本的な原則と捉えられるもので,多くの医薬品メーカー,医療機器メーカーが企業理念に挙げている。
Patient Experience(PX) は,「医療サービスに関する患者( 家族, 住民)
の具体的な経験」を意味し,医療の質の中核特性の一つである患者中心性(patient-centeredness)の質指標であり,患者(住民)が評価の主体になる。一方で,Patient
Journey は患者体験を理解し改善するためのフレームワークとして重要である。このフレームワークでは,患者が受診を決断するきっかけから診断,治療,治療後のフォローアップに至るまでのプロセスを可視化し,各段階での課題や改善点を特定する。
患者の体験価値を最大化し,医療の質を向上させるとともに,製薬企業の競争優位性を高めるための考え方である。
2.6.2 患者のインサイトを探るには
患者インサイトを探るためには,大きく2 つのアプローチが存在する。一つは,患者の現在のニーズを深掘りする「ペイシェント・エスノ」の視点である。もう一つは,患者が発症から現在に至る過程を理解する「ペイシェントジャーニー」の視点である。
ペイシェント・エスノは,患者の生活や日常に密接に関与し,その中での具体的な困難や未解決の課題を明らかにする方法である。
一方, ペイシェントジャーニーは,患者が医療に接する各段階でのニーズを可視化し,これを基に適切な医療ソリューションを提供するためのフレームワークである。
このフレームワークでは,患者が受診を決断するきっかけから診断,治療,治療後のフォローアップに至るまでのプロセスを可視化し,各段階での課題や改善点を特定する。
ペイシェントジャーニーを理解することで,患者の考え方,感じ方,行動,そしてニーズをより深く把握することが可能となる。以下のような観点から,患者の全体像を掴む意義がある。
・患者の疾患への認識,感じ方,向き合い方:
患者がどのように疾患を捉え,向き合っているかを知ることは,効果的な治療の提供に繋がる。
・患者が治療を受けるまでの行動,葛藤,バリア:
治療開始前に患者が直面する心理的・物理的障壁を特定し,支援策を講じる基礎となる。
・ 患者が治療を受けようとするに至ったきっかけ,経緯:
治療に踏み切る動機を知ることで,患者に寄り添ったアプローチが可能となる。
・ 患者が治療を正しく受けられるまでの経緯,バリア,最終的に正しく治療を受けられたきっかけ:
患者が最適な治療を受けられるようにするための改善点を明確にする。
・ 患者の治療歴に伴い,治療そのものや治療効果についてどう感じてきたか:
ユーザーエクスペリエンスの可視化を通じて,患者満足度や治療継続の向上に寄与する。
これらのプロセスを理解することで,患者中心の医療を実現し,製薬企業が患者にとってより有益な治療法やサービスを開発するための重要な基盤となる。
2.7 アンメットニーズの視点
アンメットニーズ(未解決のニーズ)を特定することは,
医薬品開発における重要な視点である。 ターゲット・カスタマーのアンメットニーズを理解するためには,以下のような問いが挙げられる。
1. 現在の治療法に対する不満や改善の余地はどこにあるのか?
2. 現在の治療法が異なるニーズを持ったカスタマーにそれぞれ応えているのか?
3. カスタマーも気づいていない新しい価値の提供が可能であるのか?
アンメットニーズはさらに「顕在アンメットニーズ」と「潜在アンメットニーズ」に分類される。
・顕在アンメットニーズ:
○ 既にカスタマーやメーカーに認識されているが,
○ 例:COVID-19 の完全予防ワクチン,がん治療における生存率改善,新しい肥満治療薬。
・潜在アンメットニーズ:
○ もともとニーズとして認識されていなかったものの,技術の応用や発見により実現可能となったニーズ。
○ 例:Viagra 登場前のED, H2 ブロッカー登場前の胃潰瘍治療,など。
これらの分類を基に,アンメットニーズに応えるための製品やサービスを開発することが,企業の競争優位性を高める鍵となる。特に潜在ニーズを掘り起こすことは,新市場創出の可能性を秘めており,イノベーションの源泉となり得る。
2.7.1 潜在ニーズの掘り起こし
潜在ニーズは,カスタマーの深層心理へのアプローチを通じて明らかになる。これには,プライマリー調査や異なる視点からの分析が不可欠である。
例えば,ヘンリー ・ フォードの有名な言葉に,「もし顧客に,彼らの望むものを聞いていたら,彼らは「もっと速い馬が欲しい」と答えていただろう。」というのがある。人々の「もっと速い馬が欲しい」という表面的な欲求から,実際には「より速く安全に移動する手段」が真のニーズであるとの洞察を示している。このように,表面的な要求ではなく根本的な問題を捉えることが,潜在ニーズの掘り起こしには重要である。
2.7.2 フォアキャスト手法とバックキャスト手法
アンメットニーズを掘り起こす際には,現状の延長線上に未来を描くフォアキャスト手法に加え,あるべき未来から現在を遡って考えるバックキャスト手法が有効である。
フォアキャスト手法では,状況の変化により方向性がぶれる可能性がある一方,バックキャスト手法はあるべき姿と現状のギャップを埋めることを目指し,より具体的な改善点を導き出すことが可能となる。
2.7.3 複数の異なる視点からの掘り起こし
医師と患者の認識するアンメットニーズにはギャップが存在することが多い。例えば,医師が現在の治療法に満足している場合でも,患者が治療に不満を抱いていることがある。このようなギャップを埋めるためには,患者,医師,看護師といった異なる視点からのデータ収集と分析が必要である。

図4
◆続きは「月刊PHARMSTAGE」2025年2月号 本誌でご覧ください◆
月刊PHARMSTAGEのホームページはこちら
https://www.gijutu.co.jp/doc/magazine_pharm%20stage.htm
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